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マーラー:交響曲第 8 番《千人の交響曲》/ティルソン・トーマス [SFS Media]
交響曲第 8 番《千人の交響曲》
交響曲第 10 番よりアダージョ
マイケル・ティルソン・トーマス指揮
サンフランシスコ交響楽団・合唱団/パシフィック少年合唱団/サンフランシスコ少女合唱団
エリン・ウォール(ソプラノ1:罪深き女)/エルザ・ファン・デン・ヘーヴァー(ソプラノ2:懺悔する女)/ラウラ・クレイコム(ソプラノ3:栄光の聖母)/カタリーナ・カルネウス(メゾ・ソプラノ1:サマリアの女)/イヴォンヌ・ナエフ(メゾ・ソプラノ2:エジプトのマリア)/アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール:マリア崇拝の博士)/クイン・ケルシー(バリトン:法悦の教父)/ジェイムズ・モリス(バス・バリトン:瞑想する教父)
SFS Media 821936-0021-2 CD&SACD ハイブリッド 2 枚組
いよいよ ティルソン・トーマス(MTT)/サンフランシスコ交響楽団(SFS) によるマーラーチクルスも最後の交響曲《千人の交響曲》に到達しました。数年前にいったん録音が計画されましたが (実際に録音したと思う)、なにか事情があったようで発売は延期となり、2008 年 11 月 19 日〜23 日の 4 回の公演で再チャレンジ、ようやく納得いくものができ上がったようです。4 日目の演奏はウェブで放送されましたが、CD と聴き比べると、おおむね 4 日目の演奏をベースとした上にところどころ違う日のテイクに差し替えてあるのが分かりました。
CD は交響曲第 10 番のアダージョで始まるのですが、そちらは後回し。まずは第 8 番から。
最初何度か聴いても、MTT による第一部は、どう聴いていいものかうまく捉えられずにいました。第一部によくある派手さがあまりなく、落ち着いて幅広な印象。そのためメリハリや劇性も (第二部と比べ) 足りないと感じたのです。しかし何度も聴き込むうちにわかってきました。あれは作品をありのまま提示した結果なのだと。
第一部と第二部の音楽性は著しく異なっています。第二部と違って第一部はよりポリフォニックであり、合唱もオケも独唱も等しく出番が多く、それぞれが複雑に絡み合っており、音楽の流れもシームレスなものです。形式ははっきりとソナタ形式であり、溢れ出る対位法は構築美を感じるほどで、ブルックナー的とも言える安定感があります。明らかに分裂的な作風のマーラーがここまで物分りの良い曲を書いたのも、第二部との対比 (と統合) を際立たせるためで、普通のマーラー指揮者ならそれをいかにもマーラー風に劇的に化粧を施すのですが、MTTはそれをそのまま音にしてみせました。あまり力まず、ことさら大袈裟にせず。あっさり風味なのは計算の上でしょう。
しかしマーラーがつまらない曲を書かなかったと同様、MTT もつまらない演奏はしていません。不必要なほどの説話性を持ち込まなかったというだけで、自然に音楽を鳴らし、その流れの内側で密度や色彩を変え、聞き所を繋げていきます。派手には聴こえませんが、ダイナミックであり、神経も隅々まで行き届いているため、目が届いてないなと思わせる部分がなく、聴いていて気持ちが良い。MTT らしい緊張感あるパウゼなど自在に伸び縮みする拍節感は柔軟性に富んでおり、それが形式的な句読点あるいはアクセントとなっています。
この大胆なパウゼあるいはリテヌートあるいはフェルマータは MTT のマーラーのトレードマークのようなものですが、この第一部では形式的な区切りと一致して使われています。展開部に入る部分のオーケストラ間奏部の前 [23]、長大なクライマックスが始まる Accende の劇的な息つぎ [38]、再現部の入りに当たるVeni, veni, creator, spiritus [64]、終結部 Gloria の前 [84]。まあこれは多かれ少なかれどんな指揮者でもパウゼなりリテヌートなり入れてくる部分です (とはいえ MTT のは滞空時間が長い)。しかし再現部の Ve-ni の MTT のやり方はあまりにも独特です。[64] に向けてほぼインテンポで突っ込んできて、再現部に入ったら Ve-ni, ve-------ni, cre-a-tor ... と 2 度目の ve-ni を思いっきり引き伸ばす。このあたりでリテヌートなりを仕掛ける指揮者は多いですが、こういうやり方はとても珍しい。わざわざ変拍子にして長さを調節しているスコアに思いっきり反するからです。
気持ち的には判るし、MTT の著作 "Via Voce" でもここは大きなフェルマータにするべし書いてあります (参照 MTTが再現部の Veni の「ヴェー」をのばしている件)。しかしそれにしては長すぎる。いろいろと考えていたら思い当たったこと、これは第 9 番との形式的な関連なのです。第 9 番の第 1 楽章で再現部に入るところ (まさにいま第 8 番で論議しているのと機能的に同じ部分) で、トロンボーンが「不整脈」動機をトドメとばかりあらん限りの力で引き延ばす部分、あれがこの 8 番に滲みだしているのです。もちろん曲のベクトルはまったくの反対向きです。似ていません。しかし、金管の盛大な下降音形で導き、再現部の開始で曲を思いっきり引き延ばすというクライマックスの築き方は良く似ています。さらに MTT のわざとらしい Ve-ni, Ve----- のリズムは、不整脈動機のリズムをどことなく思い起こさせるのです。
再現部に向け音楽を畳み込んで行き、再現部に突入したところで楽想を引っ張る、この語法 (フローロスは "breakthrough" と呼んだ) は第 1 交響曲や第 5 交響曲にも見られ、とても印象的な部分です。マーラーが作った第 8 番は、これほど明確にパターン化されませんが、やはり同じ遺伝子より出来ているでしょう。それを MTT は明瞭化してみせたのではないかと考えます。そして第 9 番の同じ部分と呼応させ、一方はフォーマルな曲 (8 番) での絶頂の瞬間、もう一方はパーソナルな曲 (9 番) での奈落の底と、この正反対なふたつが同じ語法で語られていることの残酷性をあの瞬間につくりあげてしまったのではないかと。この大胆なパウゼは音楽的なカタストロフをもたらすだけでなく、マーラーの作品を俯瞰して得られる形式感を際立たせるために挿入されたと聴き取れるでしょう。MTT 及びマーラーが意識していたかどうかに関わらず。
第二部は従来通りのマーラー的な音楽で、過去の遺産の集大成ともいえる作品。第一部のオラトリオから、世界は楽劇へ。MTT の棒からも文字通り劇性が聴こえてきます。特に冒頭の「木霊」のシーンは、ショスタコーヴィチが自身の第 5 交響曲に組み込んだほど劇性に優れており、力が入る部分。MTT の握りこぶしにもさっそく力がはいります。聴きどころはその振り上げたこぶしをどうするのか、いつまで持ちこたえるのか。SFSもこの要求に良く応えます。こんな勢いでやって大丈夫かと心配しても、さらに違った激しい表現が出てくる。段階のバリエーションが豊富で、しかも良くコントロールされております。激しさの中にある様々な相を描き分ける MTT の手腕にも脱帽ですが、オケにとっても強いと弱いの間のパレットを豊富に持つことは永遠の課題のはず、このコンビが到達した地点の高さが伺えます。
ここが決まれば後は独唱者の力量がものを言います。満足出来る録音が少い昨今、その点でもこの演奏は安心して聴けます。法悦の教父と瞑想の教父は無難な出来栄え。法悦の教父は、もうちょっと堪(こら)えて欲しかった点もありますが。ファウストの魂を運ぶ天使のシーン (女声と児童合唱) はとても良い雰囲気。特に重要なマリア崇拝の博士は、感動的とまでは言えないものの、かなり頑張っていると思います。後半の声量を落としてからの雰囲気がなかなか良い。その後、栄光の聖母が現れるハーモニウムの音楽は、もう奇跡としか言い様がない。あれだけゆったりと柔和でふわふわとした音響に心を動かされない人はいないはず。そして実際に栄光の聖母が歌うシーンも、静謐でピンと張りつめた空気が漂い絶品です。しかしここからテノールの Blikket auf に入るところで長く間を取るのはちょっとやり過ぎ。後半で MTT はパウゼを取る部分が多くなるのですが、いくつかやり過ぎと思えるところがあります。それを受け入れられるかどうかが評価の分かれ目となりそうです。
最後の神秘の合唱はとても粘りの効いた演奏。調の進行による緊張と緩和に合わせ巧くテンポを変化させています。そして、オルガンと合唱のみでもう一度 Alles Vergängliche と歌うところの直前、複縦線を跨ぐ部分でまた大きなパウゼ。しかしここは第 2 コーラスのソプラノとアルトだけが次の小節までスラーで導音を保持するという部分で、変ホ長調が消えふわっとその変ロ音だけ浮き上がったときは鳥肌が立ちました。そして次の小節で変イ長調が柔らかく立ち上がったところでまた鳥肌。普通ここはペザンテしながらそのまま次の小節へ繋げて入るので、このスラーが認識されることはほとんどないのです。マーラーが書いたこのスラーにこだわろうと思えば、いったん音を切るしかなく、中途半端にやると誰かが間違ったようにしか聴こえない部分。MTT が初めてやったという訳ではないですが、これだけ効果的に聴かせたのは初めてだと思います。その後充実したコーダを聴かせ、圧巻のうちに《千人の交響曲》は幕を閉じます。
後回しにしていた交響曲第 10 番のアダージョですが、これはやはり第 8 番の後に聴いたほうが落ち着きます。協会版を使用しつつも、クック版を参考に独自の補強をしているように聞えます (クック版より控えめ)。録音は 2006 年 4 月 6 日〜8 日、第 5 番と《大地の歌》の間に録られたようです。
演奏はとても深く潤いのあるものです。演奏時間 27'41" というのもそれを物語っています (シノーポリの 32'42" には敵いませんが)。オケの音色の透明度が高く、音域を広く使った弦楽器と狭い音域で動くトロンボーンのハーモニーとの対比が見事です。MTT はかなりテンポをいじっているのですが、その抑揚は自然で気がつかないくらいです。この曲は構造がとても判りにくいのですが、私の見立ては一応ソナタ形式で、冒頭のヴィオラ主題の後、嬰へ長調で第一主題、嬰ヘ短調でヴィオラ主題起源の第二主題、次のヴィオラ主題から提示部の繰り返し (大幅に展開され、第一主題と第二主題の間にクラスターの芽生えが生じる)、3 度目のヴィオラ主題から展開部 (提示部でも十分展開しているので、ここはエピソード風)。再現部がどこからかは難しいですが、クラスターの前に嬰ヘ長調になる 178 小節目として、第一主題の再現、その後クラスターおよび A の絶叫、そして第二主題の再現 (主調による) とコーダ。
なぜわざわざ構造などを書いているかというと、構造を意識して聴くと、MTT の演奏を良く理解できると思うからです。提示部、その展開的繰り返し、展開部と、順を追って段階的に曲を動かし、雰囲気を変えているのが良くわかる。第一主題はより感情的に、第二主題はよりグロテスクに。そして再現部の入りの部分で大きなパウゼ。ここからが再現部ですよとはっきり示しているようです。逆に言うと、構造など知らなくて、何度も似たような主題が出てくる曲という認識でも、この演奏をじっくり聴けば、この曲の形と、なぜこの形になっているのかという理由が見えてくると思います。曲の構造とドラマ性を高い次元で統合したとても美しい演奏。それだけに形式を破壊して突然挿入されるクラスターと、堪えきれずに迸る A (アルマ) の絶叫が、とても悲痛なものに聴こえることでしょう。ただし裸になったヴァイオリンの A が、まったく聴こえない位小さく収録されてしまっているのがとても残念。普通に聴いていると「落ちた」と思えます。
録音は、低域がすっきりしたいつものクリアなサウンドですが、合唱やオルガンの量感が足りないということはありません (第一部再現部前のオルゲルプンクトはもうちょっと欲しい気もしますが)。合唱は人数の割に遠めで絞って聴こえるので、合唱が全てを凌駕することもなし、独唱は逆に拾ってあるので、その辺で遠近感があります。全体的な雰囲気を大切にしながらも、必要な部分は確実に聴こえるようになっており、編集の自由度の低いらしい DSD 録音なのに、かなり頑張っていると思います。CD レイヤーで聴いていますが、栄光の聖母は下手の遥か上方から、バンダの金管は両脇から響いてくるように聴こえます。スケール感と解像度を兼ね備えた優秀な録音だと思います。
MTT/SFS のマーラープロジェクトも、残るは歌曲集になりました。おお、それから Keeping Score でも出るんだった (第 5 番がメイン?)。まあしかしこれで一段落という感じです。彼のマーラーが最高の形で完成されたことを喜びたいと思いますし、MTT が現在最高のマーラー指揮者 (「のひとり」とはあえて書かない) であることはこれで証明されました。彼らはこの後もマーラー像を掘り下げるべく演奏し続けているわけで、新たな成果をまたいつか聴けるのを楽しみにしたいと思います。
2009年11月12日 16:00
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