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マーラー交響曲第 6 番の楽章順の問題

 2003 年 10 月に国際グスタフ・マーラー協会 (IGMG) の発表により、マーラーの交響曲第 6 番の楽章順が、今まで一般的だった Scherzo-Andante とは逆の Andante-Scherzo の順になったことは、わざわざこんなサイトまで足を運んで下さる物好きな (失礼!) 皆様ならご存じの事でしょう。しかし、公式にはこの発表はいわば「宣言」だけで、なぜそのような結論に至ったかという説明がありません。

この話題に立ち入る前に、こちらのサイト

http://www.kanzaki.com/music/cahier/mahler6satz-order

が良くまとまっていますので、まず御一読下さることをお薦めします。

 私もこのサイトで紹介されているキャプランの記事を参照し、そこから決定的といえるドキュメントに到達しました (初めから海外のサイトに目を向ければすぐに見つかったはずなんですけどね ^^;)。それはギルバート・キャプラン編集の『マーラーの第 6 交響曲における、正しい楽章の順序』(THE CORRECT MOVEMENT ORDER IN MAHLER'S SIXTH SYMPHONY) という論文です。この論文にはキャプランによる序文 (これは NY Times の記事とそう違わない)、ジェリー・ブルックによる 『"悲劇的" な間違いを元に戻す』(UNDOING A "TRAGIC" MISTAKE) という、「なぜ」の部分を詳細に記録する最も重要なドキュメントと、クビーク教授による『分析 対 歴史、エルヴィン・ラッツと第 6 交響曲』(ANALYSIS VERSUS HISTORY, Erwin Ratz and the Sixth Symphony) という初代クリティカル・エディション編集者ラッツの資質を問うドキュメントが含まれています。また、証拠となる自筆譜や印刷物の写真と、楽章順年表も付いています。日本語で解説されたものが無いことを鑑み、ここでは基本的にブルック氏のドキュメントを要約しながら、楽章順をひっくり返した経緯をみていきたいと思います。

 本当なら全訳を載せたいところですが、著作権の問題をクリアするのが面倒なので (^^;、要約という形にします (それでも問題か?)。翻訳は上手くできないので自分の言葉として記載致しますが、内容的にはドキュメントにあるもの以外付け加えたりしてないつもりです。かなり長文になってしましましたので、覚悟してお読み下さい。


 マーラーの第 6 交響曲は、1903 年にオーストリア南部ヴェルター湖畔マイヤーニックのマーラーの作曲小屋で、夏期休暇を利用して作曲されました。まずその年に 2 つの中間楽章のパーティセルと、第 1 楽章の最初の部分のスケッチがされ、次の年に全曲完成されました。この段階では Scherzo-Andante (S-A) の順だったのは間違いないのですが、1905 年 1 月に完成した自筆スコアには、すでに楽章をひっくり返そうという試みが残されています。各楽章の表紙に楽章の番号が書かれているのですが、2 を 3 に 3 を 2 に上書きしているのです。しかし出版のために写符屋が作成した写譜総譜の楽章順は S-A のままなので、楽章順変更の試みは出版社に送った自筆スコアが帰ってきた後に為されたということになります。

 マーラーの当時の出版社 C. F. カーントは、1906 年 3 月に指揮者用スコアとスタディ・スコアを、5 月にピアノ 4 手用スコア(ツェムリンスキー編曲) とリヒャルト・シュペヒトによる『主題の分析』というガイドを出版します。楽章順はいずれも S-A です。

 5 月 1 日、初演に先立ちマーラーはウィーン・フィルを使い 6 番の譜読みをします。2 週間後、初演のリハーサルを始めるためマーラーはエッセンへ。初演の土壇場までマーラーはまだ楽章順に迷っていました。しかし最終的に順番を入れ替え Andante-Scherzo (A-S) の順に決定。訂正を示すメモをプログラムに挿入させます。出版社にも楽章順を入れ替えるよう要請します。次の夏に、マーラーは初演で使った指揮者用スコア (カーントの第 1 版) に手を入れ、楽章順は A-S であることを明確に書き込み、オーケストレーションも洗練させました。3 回目のハンマーが削除されたのもこの時のようです。そのスコアは出版のためカーントに送られました。

 カーントはまず在庫のある楽譜には楽章順を訂正するメモをいれました。その後、楽章順を入れ替えただけのスコアを出します (中間楽章を入れ替え、ページ番号と練習番号のみ修正されているもの)。オーケストレーションの変更も含んだ改訂版 (第 2 稿) は 1906 年 11 月に出版されています。不運にも、カーントの改訂版スコアは初期のものと同じ外観、同じプレート番号でした。この改訂版スコアは、初演にも来ていたウィレム・メンゲルベルクにも送られました。

 その後、オスカー・フリードが指揮をしたベルリン初演をマーラーは聴きに行き、1 カ月後、マーラーはミュンヘン初演を指揮しています。楽章順は全て A-S です。

 1907 年 1 月 4 日、マーラーの指揮でウィーン初演。しかしウィーンではマーラーを非難する声が高まっている時期で、中間楽章の入れ替えもマーラーの土壇場による気まぐれとされ、ますます敵対的な批評家の攻撃にさらされます。マーラーはこれ以降 6 番を指揮していません。

 ウィーン初演でマーラーは楽章順をオリジナルの Scherzo-Andante に戻したとする説が一般的 (クリティカル・エディションの初期の編集者エルヴィン・ラッツなど) なので、この辺の重要な記述は、ブルック氏による論文をそのまま引用します。

 この公演 [ウィーン初演] で合計 14 人の評論家がレポートを起こしました。それらには意見が割れ感情的になった聴衆の反応が映し出され、興味を引きます。 その中で、2人の評論家が、マーラーがプログラムに印刷された中間楽章の順序を変えたと主張しました。ハインリヒ・ラインハルト (1907 年 1 月 5 日の新ウィーン・ジャーナル) は宮廷歌劇場監督としてのマーラーおよびマーラー個人に向け、皮肉や、あからさまで辛辣な攻撃を与えました。そしてラインハルトは第 2 楽章としてスケルツォが演奏されたと主張しましたが、彼が本当に演奏会に出席していたのか疑わしいほど、彼の記述は事実から外れています。もう一人の S-A 批評家カール・ラフィテ (1907 年 1 月 7 日の Wiener Allgemeine Zeitung) の記述は音楽面ではもっとまともですが、寛大さはさらにありません。いずれにせよ、これら 2 つのレポートのみが、演奏会のプログラムと楽章順は同じだったと確認するその他の 1 ダースに及ぶ批評家と相対しているのです。マーラーが 6 番の中間楽章の順にいつまでも半信半疑だったとする証拠をこの 2 つのレポートに求める著述者は、批評家の大多数による圧倒的な数のレポートだけでなく、演奏会のプログラムに記載されている楽章順も、無視するか気づかないでいるのです。

 脚注としてドナルド・ミッチェルによる重要な指摘が書いてあります。「これら矛盾したことをいう評論家は、しばしば彼らのレビューをコンサート自体の代わりにゲネラルプローベ(舞台稽古)に基礎づけていた」。ゲネプロは曲通りの楽章順で行われるとは限らず、ラインハルトとラフィテは、初期のスコアとゲネプロの演奏だけで記事を書いたということはあり得るでしょう。

 エッセン初演直後、ウィレム・メンゲルベルクは、マーラーがコンセルトヘボウ管弦楽団と共にオランダの初演を行うように誘いましたが、実現しませんでした。一方、マーラーはメンゲルベルクに、終楽章の管弦楽法に「非常に重要な改訂」を付け加えたいので、指揮者用スコアを送ってくれと依頼します。1909 年にも、もう一度メンゲルベルクのスコアに変更を加えます (これらの基となっているはずのマーラーのスコアは見つかっていない)。これらマーラーが手を入れた変更でも楽章順に関しては A-S のままです。

 1910 年、マーラーは Universal Edition と契約、このとき 6 番をさらに改訂する機会は得られませんでした。UE はカーントのスコアに UE のスタンプを押すことで出版を続けましたが、倉庫に眠る古い S-A 順のスコアも、UE のスタンプを押して流通させてしまいました。これはマーラーが再びまた気が変わったという考えを支持する材料になってしまいます。

 1911 年 5 月 18 日、マーラーはウィーンで逝去しました。

 1916 年に、ウィレム・メンゲルベルクは第 6 交響曲のアムステルダム初演をしますが、楽章順は A-S です。この事実は、マーラーが以前の楽章順に戻そうとしていた意思をメンゲルベルクにうち明けていたのではないかという推測が間違っていることを示します。

 1919 年 10 月、アムステルダムでマーラー・フェスティバルが開催されます。しかし、誰が、なぜ疑問に思ったのかは判っていませんが、メンゲルベルクは楽章順に確信が持てなくなっていました。数カ月前に、メンゲルベルクの従兄弟で音楽学者、そしてコンセルトヘボウ管弦楽団マネージャでもあるルドルフ・メンゲルベルクが、S-A 順である初期のカーントのスコアをウィレムに見せた可能性があり (メンゲルベルクの指揮者スコアにウィレムのものでない筆跡で「小型スコアではここ [Andante の前] に Scherzo が来る」とのメモがあります)、それがきっかけだったのかも知れません。そこでメンゲルベルクはアルマ・マーラーに相談して問題を解決しようとしました。1919 年 10 月 1 日付けの電報で、アルマは簡潔に答えました 「最初は Scherzo, そして Andante - 心から アルマ」。アルマからの電報を受け、彼は指揮者用スコアの表紙に走り書きしました「マーラーの指示に従い 最初 II Scherzo その後 III Andante」。これがボタンの掛け違いを決定的にしました。

 マーラーを文献学的な視点で研究した人ならわかるでしょうが、アルマの言説は、記憶の混乱やアルマによる脚色が多く、文献学的にはまったく信頼出来ないものです。しかしながらアルマは、マーラー自身によるピアノで (S-A 順の) 最初の草稿を聴き、まっ先に衝撃をもってこの交響曲を体験した人物なので、一概にとがめることは出来ないでしょう。しかしその後の彼女の書いたものでは、Scherzo は 3 楽章だとしていますし、以降半世紀の間 6 番の演奏を聴く機会があったにも関わらず、アルマが「間違った順序だ」と指揮者をしかることも決してありませんでした。いったいどちらのアルマを信用すれば良いのでしょう。

 それでもその後暫く、マーラーの 6 番は A-S の順のまま演奏されていました。

 1963 年に IGMG は第 6 交響曲のクリティカル・エディションを刊行します。しかし、ここで楽章順が S-A に変更されてしまいます。編集者であるエルヴィン・ラッツは序文で、マーラーは楽章順をオリジナルの S-A 順に戻すつもりだったと明確に述べています。しかし、ラッツはその断定を裏付けるいかなる証拠も示しませんでした。

 クリティカル・エディションの出版に先立つ 1955 年に、ラッツはマーラーの 9 番と 6 番の問題を扱ったエッセイを改訂するため、何か資料がないかとルドルフ・メンゲルベルクへ手紙を出しました。その時の関心事は 3 度目のハンマーの事のようですが、ルドルフからの返事で、アルマの電報の件と、S-A 順でのスコアが残されていることを知ります。ラッツはこのことに大変興味を持ち、アルマに確認します。なかなか返事が貰えなかったのですが、ようやく貰えたアルマの返事は「マーラーがアムステルダムで演奏した順序は確実に正しいです」というものでした。もちろん、マーラーがアムステルダムで演奏したことは無いので、この情報はそもそもの信憑性が問われるべきものですが、ラッツはこの返事を都合良く解釈します。

 ラッツは文献学や歴史学というよりは音楽分析の人でした。S-A の順を音楽的に優れていると歓迎した彼は、マーラーは「明らかに他の者の影響を受けて」楽章順を変え、すぐに間違いだと悟り元に戻そうとしたが「総譜を出版する際の手落ちで、然るべき言及が添えられなかった」と言ってのけます(「」部分は音友版の西原稔氏訳による)。ラッツはブルーノ・ワルターの「マーラーは私の知る限り、それ [A-S] 以外の楽章順について話題にしたことが無いので、楽章順の変更は決して承認できない」という自分の理論と矛盾している証言を、知りつつも無視したりします。

 1998 年に 6 番のクリティカル・エディションが改訂された際も、IGMG はラッツの S-A 順を守り続けました。その時の編集者フュッセルも、歴史的な経緯を無視し、専ら音楽理論の観点から、A-S 順にしてしまうと調性的な繋がりが破壊されると、S-A 順を擁護しています。この時すでにクビークも編集に関わっていましたが、この時点で楽章順を変更しなかった理由に、校正に注力していたこと(*)、フュッセルから楽章順について質問されなかったこと、ジェリー・ブルックの素晴らしい論文が届いてなかったことを挙げています。

(* 私の英語力では「フュッセルがクリティカル・エディションに (変更点を) 完全に移し替えてなかった」という意味に取りましたが、クビークが「フュッセル版」と呼んでいたりするので、クビーク自身は当時責任を負う立場ではなかったという意味かもしれません。 )


 以上がキャプラン編集の論文に書かれている大まかな内容です。これを見ると、(分析的に A-S, S-A のどちらかが優れているという議論は置いといて)、歴史的にマーラーの最終決断は Andante-Scherzo だったというのは明白でしょう。ブルックの論文にも書いてありますが、マーラーが一応の完成後にも楽章順をいじることは前例があります (1 番の "Blumine" や、2 番の Andante, Scherzo の問題、あと《嘆きの歌》)。しかしこれらの作品については、変更してからの期間が充分あり、マーラーによる地均しも充分されていたということもあるので、マーラーの意思が疑問視されることはありません。それと同様、6 番の楽章順もマーラーの決定に敬意を払うべきと思います (よくよく考えれば、マーラーが "他人の影響" で楽章順を変えたなど、にわかに信じられないことですし)。

 私の個人的意見では、S-A 順での「流れの良い」ドラマ性も捨てがたいですが、聴き慣れれば A-S 順も決して悪くないと思います。1 楽章とアンダンテは調性的にはニ長調と変ホ長調で繋がりは悪いですが、アタッカで演奏するわけでもないですし、マーラーお得意の変ホ長調によるメヌエットでリラックスできる利点は、さらにストレスのかかるスケルツォを聴くより大きいと思います。変ホ長調から繋がるスケルツォのイ短調は、かなりショッキングで効果的です。スケルツォのお終いに「イ長調→イ短調」という6 番の運命的なモットーが出てきますが、これは次のフィナーレへの予告として機能します (チャイコフスキーの 5 番みたい)。フィナーレの開始のハ短調はそれほど繋がりは悪くないですし (これこそまったく根拠のない連想ですが、この楽章順で聴くと、ブラ 1 のフィナーレ冒頭のハ短調を思い起こしました)、すぐに「イ長調→イ短調」がテュッティで出現しますので、いよいよ始まる感が強くなると思います。ドラマ性ではアンダンテからフィナーレに繋がる方が、起承転結が良いように思いますが、慣れかも知れませんし、演奏内容でも印象は変わるでしょう。

 これは全くの持論ですが、S-A 順だとマーラーのそれまでの 4 楽章形式の曲 (1 番, 4 番) と代わり映えしない。5 番も、真ん中の楽章を取り外せば同じパターンになります。マーラーもちょっとはパターンを変えないとという思いがよぎったかもしれません。また古典的交響曲のフォルムにこだわったこの曲は、やはり 2 楽章は緩除楽章の方が、形式にこだわるという点でより強固なものとなるでしょう。ま、きっとマーラーにはそれ以上の理由があったはずです。調整的な繋がりを破壊してまで楽章の倒置を決定するのは、生半可な気持ちでは出来ません。

 今後 Andante-Scherzo の楽章順が定着していくのか私には判りませんが、A-S 順がマーラーの最終的な結論だったということは尊重されるべきです。その上でブルックナーの複数の稿のように、あるいは《花の章》付きの 1 番とかのように「初期の楽章順による演奏」などと標榜したバリエーションは仕方ないと思いますが、しかしそれは選択の自由を与えるようなオプションではなく、あくまでも正統は A-S だと認識するべきだろうと考えます。

オリジナルの論文はこちら。ディレクトリにはカラーでの図版もありました。カラーの方が加筆訂正の様子など良く判ります。

http://www.posthorn.com/Mahler/music_bio.html

私の下手な日本語訳でも良いので日本語で読みたいという方は、連絡を頂ければ個別に対応したいと思います。まだ全文日本語にしていませんが。また、私が意味を取り違えている部分を発見した方はご一報下さい。訂正します。

関連記事を検索: キャプラン マーラー 交響曲

2005年5月14日 13:02

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コメント(2)

はじめまして。いつもブログ拝見しています。この投稿は僕はどうやら見落としていたようで今日になって読ませていただきました。僕はマーラーはよく知らないので前から楽章の順番が変わるのはどうしてなのかと思っていましたが、なるほどこういう経緯があったとは勉強になりました。ありがとうございました。なおうちの方にリンクさせて頂きましたので、もしご希望でなければご面倒ですがご連絡下さい。よろしくお願いします。

投稿者 リベラ33 : 2005年7月 1日 10:48

リベラ33 さんコメントありがとうございます。私も何で変わることになったのか疑問に思っていたもので、上記 KANZAKI さんのサイトや NY Times のキャプラン氏の記事が無かったら、ここまで辿り着かなかったでしょう。
こちらからもリンクさせて頂きます。よろしくお願いいたします。

投稿者 渡辺純一 : 2005年7月 1日 15:35

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